母が壊れてしまったあの日から

この文章は自分の心と今までの記憶を整理するために書いたものです。

 

それでいて、誰かに読んでもらいたい、誰かに聞いて欲しいという強い願いを含んだものでもあります。

 

どこに投稿すればいいか迷ったのですが、とりあえず長い間自分の居場所だったこのブログに上げておこうと思います。

 

拙いひとりよがりの文章ではありますが、何か感じることがあればコメントしていってもらえると嬉しいです。

 

 

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・あの日

 

母が壊れてしまったのは、今から15年ほど前の冬の出来事だった。

 

当時高校二年生だった私は、北海道での修学旅行から帰宅し、うかれた気分で玄関の扉を開いた。

父は海外出張中で、大学生の姉は下宿先で過ごしており、母は一人で私の帰りを待っていた。

 

荷物を降ろして一息ついていると、母はいつも通りリビングから顔をのぞかせ、「お帰りなさい」と言って出迎えてくれた。

その声はとても優しかったが、どことなく雰囲気が暗いのが気にかかった。

見ているこちらが不安になり、得体のしれない怖さを感じる。そんな空気を感じた。

 

しかし、スキーや街歩きを満喫し、飛行機の遅延によって予定より大幅に送れて帰宅した私は、とにかくへとへとに疲れていた。

母の様子は気にかかったものの、できるだけ早く横になりたい。

実に適当にシャワーを浴びてベッドにもぐりこむと、あっという間に眠りに落ちていった。

馬鹿みたいに深い眠りだった。



翌朝、起きてきた私の顔を見るなり母は「死にたい」と言った。

 

正直に言って「また始まったか」と思った。

母は少し前から鬱的な状態になることが多々あり、私はこういった発言にはもはや慣れっこになっていた。

 

適当にテンプレートのような慰めの言葉を口にし、ひとまず母が落ちついたのを確認してから学校へと向かった。

 

夕方帰宅すると、家の中に母の姿は無かった。専業主婦であり、外出するのも大抵は昼時である母が、特に何も告げずに不在にするのはそれだけで珍しいことだ。

どうやら母は車で出かけたらしい。

何か嫌な予感がしたが、当時母は携帯電話の類を持っていなかったので、特に何ができるわけでもない。

音楽を聴きながらだらだらと帰りを待った。

 

母から電話がかかってきたのは30分後ぐらいだったと思う。

重く小さく掠れた声で、何を言っているのか、ほとんどは聞きとれなかった。

拾い上げられたのは、ただ、「死にたい」と言う言葉だけ。

こちらの声が届いているのかもわからないまま、電話は切れてしまった。

 

それから、車が戻って来る音が聞こえるまで、実際には数十分というところだっただろうが、自分には本当に長く感じられた。

ひとまずの無事を知り、私はほっとする一方で、これから先を想像して恐怖を感じていた。

いったいどう母にどう声をかけ、どう接したらいいのだろう。

 

降りてきた母は呆然とした顔で、私と向き合った。

そして、「死にきれなかった」とぽつりと言った。



・全部嘘だった

 

ここからの記憶は自分でも驚くほどに曖昧で、おそらく今の私が勝手に作りだした事実と異なる記憶もあるように思う。

しかし、

「私が全て悪かった。全部嘘だった。お父さんもお祖母ちゃんも何も悪くない。全部私のせいだった。」

母が泣きながら、絞り出すようにそう言った、その光景だけははっきりと目に焼き付いている。

 

 

・母と私

 

私は幼少期から根っからの母親っ子だった。

母の言うことを信じ、頼り、依存して生きてきた。

客観的に見てマザーコンプレックスの類だったと思うし、今でもそれはおそらく変わっていない。

 

そして、母は毎日のように夫や姑への不満を口にしている人だった。それは当時の私にはひどく重たい言葉に思えた。

 

母と父はよく喧嘩をしていたものの、関係が破綻していたわけではなかったし、普段は笑顔で会話していることも多かった。

 

しかし、周りに私や姉しかいない時に母がこぼす愚痴や怒りの言葉は、呪いの様に私の頭の中に刻み込まれていった。




「全て私が悪かった。全部嘘だった。」

 

その言葉は、母にとっては鬱状態の混乱から生じた気の迷いのようなものだったのかもしれない。

何かショックを受けて精神的に不安定になった人が、全てを自分のせいにして抱え込み、負の連鎖に陥ることはそう珍しいことでもないだろう。

 

しかし、当時の私にとってそれは衝撃的な出来事だった。

 

大げさに思われるかもしれないが、自分の中の価値観が根本から崩れていくのを感じた。

 

私は母の目線から見た世界しか知らずに生きてきたのではないか?私の考えは本当に私のものだったのか?

 

そんな思いが私の中にどんどん広がっていった。




そして、その発言をしたあと、「母は壊れてしまった」。

 

どのタイミングでそれが発症し、どのような経過で重症化したのか、今はほとんど覚えていない。



覚えているのはー

 

「冷蔵庫から火が出てる!」「警察に逮捕される!」などととくり返し叫んでいる。

 

怯えた顔でぴょんぴょんとその場で跳ねている、意味もなく、跳ね続けている。

 

遠方からかけつけた祖父母(母から見た両親)を見ながら「あなた誰?」と問いかける。

 

ーそんな母の姿。




そして、暴れる母を車の後部座席に無理やり乗せて、家族4人で総合病院へ向かったこと。

 

イヤフォンで耳をふさぐようにして聴いていた曲が、あまりにも綺麗な音色だったこと。

 

薬か何かでひとまず落ち着きを取り戻し、帰路に就いた母の憔悴しきった顔。

 

そんな捨てたくても捨てられない記憶の欠片が、今もふとした時に頭の中によみがえってくるのだった。





・壊れてしまった

 

2020年の現在は、「統合失調症」という病名が浸透してきたが、15年前はまだ「精神分裂病」という表現が残っており、私の頭に刻み込まれたのもそちらの病名だった。

 

当時の私にとって、その響きは何か絶望的なものであるように思えた。



これを読んでくれている方、特に病気に関わる当事者の方は、「壊れた」という表現に悲しみや怒りを感じるかもしれない。

 

しかし、「私の中で」母は確かにこの時壊れてしまった。

 

それは消しようのない感覚であり、母の症状が軽くなって傍目には普通の生活ができるようになった後も、私の心にずっと重たくのしかかっていた。

 

あるいは、「自分のこれまでの感覚が壊れてしまったこと」をすべて母のせいにして、心の平穏を保とうとしていたのかもしれない。



それからの私の生活は一変してしまった。

 

高校にはひとまず通っていたものの、ほとんどのことに集中できず、成績は当然の如くガタ落ち。

 

家に帰れば、多少落ちついたとはいえ相変わらず妄想の類を語り、死にたいと繰り返し呟く母がいて、部屋にいても跳ねている音がずっと聞こえてくる。

 

部活に信頼出来る友人達がいたのが救いで、ほとんど部活の時間だけを支えにして過ごす日々だった。

 

そうして三年生の夏、総体が終わるまでは何とか過ごしたものの、部活動が終わり、完全に周りが受験に集中し始める二学期が始まると同時に、私は学校へ行けなくなった。



・逃げる日々

 

結局私はあと数十日通えば卒業できるはずだった高校を中退した。

 

うしろめたさを感じながら家に引きこもり、パソコンに向かって、音楽や詩、小説のサイトを眺め、吐き出すようにブログを書く毎日。

 

ありがちなことだが、ネット空間で好きなことにだけ接している時は現実を忘れられた。現実から逃げ続けることで、なんとか日々をつなぎとめていた。




・予備校と大学と宣告と

そんなふうにして半年が経ち、少しだけ気持ちが落ち着いた私は、元担任に促されて受けた高校卒業程度認定試験をどうにか受けることができ、合格。大学受験の為に予備校へ通うことになった。

 

そして、本来実家から神戸市内の予備校へ通えば良いところを、わざわざ京都の予備校を選び、寮に入って1年を過ごすこととなる。

 

父と、そのころにはだいぶ症状が改善しまともな会話ができるようになった母との間で、どういう会話があったのかはわからない。

 

しかし、母のためを思うならば、私は一緒に暮らしたままの方が良いということはわかっていた。

 

それでも当時の私は、これ以上「自分の中で壊れた母」と同じ空間にいることに耐えられなかった。




決して楽しいとは言えない予備校生活であったが、学年で言えば一浪生と同期で奇跡的に志望大学に合格。



自身の鬱状態は簡単には改善せず、不安定な日々では続いたものの、どうにかこうにか講義を受け、週に3、4回は部活動へ顔を出していた。

 

それなりに充実した大学生活だったと言えるかもしれない。




そんな二回生の冬、母は突然の癌宣告を受けた。すい臓がんであり、見つかった時にはもう手遅れに近い状態だった。



それを聞いた時、私は当然動揺し、悲しみ、怒り、「何故」という思いにかられた。

 

しかし、そうした混乱がひとまず収まった時、どこかほっとしている自分を発見して愕然とした。

 

「これでまた、逃げられる。」






・なんだったんだろう

 

宣告を受けてからの母の様子は、表面的には思ったより落ちついているように見えた。

 

でもそれは、全てを受け入れていた、というような綺麗な理由ではなく、事実を受け止めきれずに呆然としていたのではないかと思う。



母が入院してから、大学が比較的近かった私は毎日のように病室へ通った。

 

会話は何気ないものが大半で、ただ言葉もなく静かに時間がすぎるのを待つ時間も長かった。



そして一つだけ、これもまた馬鹿みたいに鮮明に残っている記憶がある。

 

静けさに包まれた病室で、窓の外を眺める母からこぼれおちた言葉。

 

「私の人生はなんだったんだろう。」



何も答えることができなかった。





・あの日から

 

母は1月13日の金曜日に癌宣告を受けた。3月13日の金曜日に容体が悪化し緩和ケアの施設に移った。 

 

そして呼吸をやめてしまったのは4月2日だった。

 

なんだか笑えてしまうぐらいに不吉な数字が並んでいて、いっそ命日が4月1日であれば嘘にしてしまえたのかな、なんてことを思ったのをよく覚えている。



私にとっての母の死は二度目だった。

 

ずっと死にたい死にたいと繰り返していた母が、最後は死ぬのが怖い、怖いと言って死んでいった。

 

あれからもう10年以上が経ち、母は今も死に続けている。




母が壊れてしまったあの日から、今に至るまで、私は何かフィクションの中で生きているような感覚を抱えて生きてきた。

 

自分がここにいることへの違和感。

 

端から見れば中学生の妄想と変わらない、そんな幼い感覚。

 

そして、逃げるための言い訳を常に探している自分への、どうしようもない嫌悪感。




どうせずっとそれらを抱いて生きていくならば、書くことで見えるものがあるかもしれない。そんな考えで、思い出したく無い記憶を掘り起こし、吐き出してみた。




「私の中の母」はあの日壊れてしまったけれど、本当の、生身の母は、きっと最後まで必死で生きていたのだと思う。

 

「なんだったんだろう」に答えられなかった、そのことが、今もどうしようもなく悲しいし、悔しい。




行くあてのない「ありがとう」を抱えながら、私は今日も逃げ続けている。